この荒地に降り注ぐ音楽が楽園を鳴らすべきなら、
レイ・ハラカミの電子音楽こそがもっとも必要とされている
「ポップ・ミュージック」のはずだ
今まで以上にいろいろな趣味性を持った音楽リスナーがレイ・ハラカミに注目し、このディスクを手にしていることと思う。YMOやクラフトワークの時代から電子音楽と戯れた人は、久しぶりにこの日出ずる国からエレクトロ・スタンダードが生まれたと喜び勇んでいるのかもしれない。ある人はアンビエント→エレクトロニカという潮流の中でハラカミと出会い、この「夢の結晶」のような音楽を愛でているのかもしれない。さらにある人は矢野顕子やくるりの盟友コラボレーターとしてハラカミを認知し、そのメランコリックな狂気に吸い込まれていったのかもしれない。もしくは何らかのライフ・スタイル・マガジンのスロー・ライフ特集や、「今、最もあなたを豊かにさせる音楽」という風水のような魅力で語られる中からハラカミに惹かれた人も、このタイミングではきっといる筈だ。
入り口なんてどうでもいい。この作品に辿り着いた人は、ここで全く新しいポップの価値観と恋愛することが出来るのだから。大袈裟ではなく、本当にこのアルバムはエイフェックス・ツインの『セレクテッド・アンビエント・ワークス85−92』以来の、「電子音楽がポップを導き出した発明」だ。普遍的にしてラジカルな、音楽の中の音楽だ。狂気に惹かれながら、優しさや温かさを渇望する僕達に最も近いところで鳴っているルーム・ミュージック、それが『LUST』だと、コロコロしたサウンドが人懐っこく耳に迫ってくる。とても楽しい。
前述したエイフェックス・ツインことリチャード・ジェームスは、「テクノ・モーツァルト」と称され続けているアーティストだ。いろいろな要因があるが、彼の慄然とするほど深く高い音楽への執念が静寂の中から激しく伝わるところに、その語意があると思われる。かつて彼に「何であなたは他のアーティストの楽曲をリミックスするのですか?」と訊ねたら、こういう答えが返って来た―――「クズな音楽が多過ぎるから、そのクズな音楽をいい音楽に修正する。そのために僕はリミックスする。だから僕は素晴らしい音楽のリミックスはしない。修正する必要がないからだ(笑)」。とても明快な表現欲求だ。純度の高い音楽愛だ。
ここでいうクズな音楽とは、「汚染された音楽」と同義語だと思われる。時代感、セル・アウトされるまで搾り取るような音楽ビジネス、そしてプリセットやサンプリングの充実によって素面が見えないほど塗りたくられた借り物の化粧のような音。それらに汚染された音楽を浄化するのが自分の音楽活動だと、彼は言い放ったのだ。そして言うまでもなくリチャード・ジェームスは、音楽の神秘や狂気や温かさといった純粋さを取り戻す作品を描き続けたのだった。
レイ・ハラカミはその意味において今、世界を見渡しても貴重な音楽家だ。何にも左右されず、何にも縛られず、「胎内に戻ったら、こんな音が聴こえて来るのだろうな、いや、こういう音を聴いていたいな」と喚起させるのが、彼の創造した音楽の魔力だ。水の中にいるような、心地いいけど溺れてしまいそうな不安も感じさせるのが、このアルバムの音楽だ。
何しろ、この音楽は全く汚染されていない。この時代を生きているクリエイターがフラットに音楽や生活と立ち向かいながら作った作品にも拘らず、ただただ夢の中のような世界が広がる。何故か? 「恋」しているからだ。ハラカミが音楽に「恋している」からだ。そんなラヴ・レターとしての音楽だからだ。誰に対するラヴ・レターか? 「音楽」だ。音楽に恋している男が、その音楽に対して恋する気持ちを表すために音楽を作っちゃうような―――何だか猟奇的な言い回しになってしまったが、そういう感じだ。モーツァルト→エイフェックス・ツイン→レイ・ハラカミ。この流れの源泉にあるのは、天才であることと、誰よりも強く音楽に恋する気持ちを表現する(した)ことだ。音楽に想いを馳せ、音楽と語り合い、音楽に恥じらう気持ちが「汚染されることなく」純粋培養されていることだ。
極端な純粋さは、それ自体が狂気だ―――レイ・ハラカミの『lust』は、そんなことをそっと告げてくれる。
4年ぶりのアルバムだが、とても懐かしい。新作を前に懐かしいとは勝手な話だが、要はこの4年間、レイ・ハラカミのような音楽は誰も鳴らせなかったということだ。この『lust』によってはっきりしたこと、それはレイ・ハラカミの音楽が発明品であるということだ。これだけいろいろな物事が目の前を通過する中で、「この音楽を聴いている間だけは何にも関係ない。運気を逃したとしてもこの音楽とだけ戯れていたい」と瞬時に思わせる世界が、音楽として完成しているということだ。矢野顕子やUAとのコラボレートも、くるりのリミックスもそうだった。音が鳴った瞬間にその音楽以外にまったく耳や目がいかなくなる、それがレイ・ハラカミの音だ。
レイ・ハラカミの音はすべてがコロコロしている。キックの音は「ドッドッ」ではなく「トントン」だし、シンセの音も「ジュワーン」ではなく「ほゎーんほゎーん」だ。先鋭的な音楽は、その言葉通りに刃先を磨くことをまず考えるが、ハラカミの音楽は「丸く磨かれている」音楽だ。これこそが、電子音楽だけが鳴らし得るラジカルさとポップさだ。エイフェックス・ツインの初期、YMOの中期、オウテカ、LFO………ラジカルでミステリアスで面白くて不気味なほど底知れない電子音楽は、みんな「まん丸く尖っている」感触を僕らに与えてくれた。ハラカミはそこにさらに「人力」というか、夢や空想や恋愛やおっちょこちょいや音楽への渇望=lustを加え、コロコロ転がしている。要するに「気持ち」を生々しく鳴らしている。2曲目にある10分の大作“joy”。何かを考えたり想い描いたりしている時が一番楽しい=joyということは、みんなもうわかっている。しかしその夢のようなjoyを実行に移すとき、joyはどんどん気持ちの中から消えて行く。ハラカミはその空想や夢見たことを、音楽という実行に移してもまったくjoyは消えないと。いや、さらにjoyは増すのだと楽曲で伝えてくれる。それこそが音楽の力だ。それこそが音楽の自由だし、音楽というメッセージだ。このアルバムの中でコロコロしている音楽は、「音楽の中の音楽」だ。
前作『red curb』からの4年もの間、ハラカミは散文的にこのアルバムの楽曲を作り続けたそうだ。京都の自宅兼スタジオ――というか、「スタジオとはとても呼べない、自宅にただ機材が置いてあるだけ」(レーベル・マスター、山崎マナブ氏談)な場所で作り続けたそうだ。余談だが、ハラカミの機材はめちゃくちゃ安いものばかりだそうだ。乱暴に言い切ってしまえば、カラオケのトラックを作るようなレベルの機材ばかりだそうだ。プレミア価格の付いた名機の中古とかそういうのじゃなく、ただのシンセやサンプラーばかりだそうだ。とても素敵な逸話だ。手段や方法じゃなく、人と音楽がわかり合えるまでとことん渇望し合い、そしてお互いに恋愛を享受し合った結果生まれるjoyな音楽。たとえそこが荒れ地だろうと楽園だろうと、レイ・ハラカミの『lust』は人と音楽が手と手を取り合って鳴っている。
このアルバムとレイ・ハラカミの電子音楽が今後のエレクトロニック・ミュージック・シーンの潮流を担うと考えるのは、ちょっと早計だ。純粋な音楽家に自由なフィールドを用意してあげられるレーベルやシーンがまだ出来上がっていないし、ハラカミのような音楽との恋愛上手もなかなかいないからだ。まだまだマイナーの域を脱していない電子や打ち込みの音楽や、注目を集めた途端に自由度を失ってしまうアンダーグラウンド・ミュージックとハラカミの音楽は、根本的な部分で大きく異なっている。彼の音楽は居場所が決まっていないからこそ、何処へでも誰の心の中へでも飛んで行ける音楽だ。つまり、ポップなのだ。
ハラカミが矢野顕子の子供なのか、細野晴臣の子供なのか(5曲目は、細野晴臣の『HOSONO HOUSE』からのカバー。矢野顕子がライヴでよくカバーしていたものをハラカミがアレンジして自分で仮歌を入れたら、それが矢野顕子を含めて反応がよかったのでそのまま採用となったらしい)はわからない。しかし、このアルバムを聴いた人の中からハラカミのようなアティチュードで音楽を作る人は、確実に出てくると思う。「ハラカミの子供達」だ。このアルバムがもたらすロマンスは、いろいろな意味で壮大だし有機的だ。