目が醒めるほど鮮やかな決定曲が生まれた。瑞々し過ぎて、歌詞が頭に入る前に「これは春の歌だ!」と胸が躍ったが、ようく聴いたら完璧なウインター・ソングだった。紛らわしい歌を書かないでくれ、と切に願うばかりだ。
話が逸れた。それほどビートとメロディーの調和が鮮やかな突風を吹かせる曲だ、と伝えたかったのだった。彼らの今までの代表曲“雨上がり”や“電話”がそうであるように、“南風”はレミオロメンがレミオロメンであるためのすべてを鳴らす新たな名曲だ。1年ほど前に初めて聴いた時、彼らが音楽シーンに初めて足跡を残す曲になるとえらく興奮したが、曲自体が長い旅を超えてこうやって作品になった今、その予感は間違っていなかったと確信している。何の根拠もなしに走り出し、挙げ句の果てに誰かれともなく恋したくなる———そんなアナーキーな正のパワーが溢れ出してくる。何なんだ、このエネルギーは。
「生きていること自体が芸術だ」と誰かが話していた気がするが、素晴らしい絵画も建造物も音楽も、すべては「自分は今、ここに生きている」という訴えが胸を強く打つ。その胸の震えに宿るものこそが「ポップ」だ。ポップは腐ったみかんの心に訴えかけるものじゃない。呼吸して思想を張り巡らせ、哀しみと死と向かい合いながら生きる喜びを見出す者に向けられた「魂という名の娯楽」、それがポップだ。“南風”を聴けば、本能的にそれを感じるだろう。ムクムクするんだ、何が? 欲望が、だ。
デビュー時から並外れた表現世界を持っていたレミオロメンは、「故郷」と「蒼さ」というメランコリックな世界から僕らリスナーを手招きするバンドだった。清涼な景色とスピリッツを、手紙を書くように音楽に乗せて運ぶ内気な3ピースだった。ジャズの要素を秘めたドラマーとファンクを根に持つベーシストがありながら、激しいセッション性よりも静けさと純潔さと恥じらいを浮べる楽曲の世界を忠実に表わす、理性に長けたバンドだった。つまり、「行く」より「待つ」バンドだったのだ。
しかし、トリオ・ザ・レミオは手招きしながら待ち続けるバンドというポジションにシビレをきらしたようだ。何故なら、彼らは「ロック・バンド」だからだ。動物的に音に噛みつき、音を舐め尽くし、音と戯れるロック・バンドだからだ。
バンドの2ndチャプターが幕を開く今、3人はノスタルジーに別れを告げ、ビートの跳躍力とメロディーの翼だけで自由に飛べる武器を手に入れたようだ。それが“南風”。聴いているだけで哀しみが弾け、欲望がこみ上げてくる。サビで、メッセージとメロディーと跳ねるようなビートが徒党を組んで暴力的なまでに蒼々しく昂揚する瞬間、そして「手の平合わせたら 世界が変わる」と宣言するリリック。
これだ。
これなのだ。
願いなんて容易いもので僕らリスナーは騙されない。欲しいのは「欲望」という実感だ。レミオロメンは欲望を鳴らすためにビートに翼を生やし、愛と勝利と哀しみの先にある世界を手に入れるために「行く」姿勢をこの曲で鳴らした。
レミオロメンは今、ここから、音楽動物として生きる覚悟を固めたようだ。動くし、もがくし、攻めるし、負けることもある。そんな生き様を全部音で鳴らして疾駆する動物になるようだ。これだけのソング・ライティング力とバンド・グルーヴを抱えたバンドが動物として本能の音を鳴らす————待っていた、この瞬間を。
どうか容赦なく震わせて欲しい、欲望の心の奥の、また奥を。