全く無理のない「唄」が、ここにたくさんある。無理して死と向き合うこともなく、ロックであることに怯えながら時代に抗うこともない。見られることなき日記のように、自分の存在の結晶だけを綴った音楽。僕はこういう音楽のことを「ゼロ地点のうた」と定めたい。
古明地は唄の中でよく願いを告げる。ずいぶんと厚かましい奴だと思われても仕方がないほどお願いばかりしている。しかし、彼の願望はまるでジョン・レノンやジェフ・バックリーのそれのように、はかなくも無償の願望だ。生き続けることを願うように、赤ん坊が目の前のリンゴを手に取りたくて初めての一歩を踏むように、透明な欲望が古明地に願望を歌わせているのだろう。それが感覚として聴こえてくる音楽だ。
たとえ徹底的に自己を否定しようと、これだけ「あなた」を肯定して溺愛する楽曲は、愛に従順で美しい。古明地は、愛しているという一言の重みに極度の緊張をもって臨んで唄を放っている。それほど彼のラヴ・ソングはちぎれそうに弱々しい。だからこそ旋律やビートが必要なのだと、彼の音楽は告げている。
誰もがわかっているが、音楽の力はロックやブルースなどといったジャンルがもたらすものではない。音を鳴らしてまでも伝えられないことを伝えたいという野性が、音楽に本当の力をもたらす。「この世界はとっくに僕等の想像を超えている/激情はいらない 小さな胸が震えるだけでいい 鼓動が聞きたい/君のその心臓にキスしてもいいかい? 君のその心臓に触れてもいいかい?」(“マルテ”)―――無垢と狂気が織り成す世界から、音楽の野性が聴こえてくる。
失うことを受けとめることが出来ない音楽やメッセージが多い中、失い続ける日々に自覚的だからこそ何かを得ようと歌う唄。『夜の冒険者』は生きる本能のカタマリだ。古明地君は、これでいいんだと思う。おめでとう。